daisuke fukushi

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エトルリア文字
Etruscan Alphabet

媒介としてのエトルリア文字

ギリシア文字からラテン文字へとどのような経緯を辿りその形が移り変わっていったのか,そこに現れてくるのがエトルリア字アルファベットの存在です。正確な起源が不明なその文字は,紀元前1千年紀初頭から前8世紀までの間に,イタリアに持ち込まれたギリシア文字がローマ人に引き継がれる際,そこを仲介したエトルリア人によって手を加えられたものと考えられています。その最古の文字遺物も前8世紀の末頃に見つかっており,そこにはフェニキア字母22個とギリシア字母4個の,計26個からなるエトルリア字アルファベットが刻まれていました。エトルリア人はギリシアからおそらく紀元前8世紀の末頃にその文字を借用したと考えられていますが,ギリシアのアルファベットには,現在でも使われ続けている東方アルファベットと呼ばれるものの他に,西方アルファベットと呼ばれるものがあり,このときに借用されたものは後者の方でした。そして,その文字をただそのまま引き継いだのではなく,例えば「f」の音価をもつ記号「8」の追加や,ギリシア語では「g」音を表す記号「Γ(ガンマ)」を「C」の形で引き継ぎ,それに「k」の音価を与えるなど,いくつかの変更が加えられることになります。こうした背景から,現在使用されているギリシア文字の形と私たちがよく使用しているラテン文字の形が異なっているのは,その由来が西方アルファベットにあることが要因となっています。

エトルリアの先進性

エトルリアは,その領域が完全に重なるわけではありませんが,ほぼ現在のイタリア中部にあるトスカーナ州のあるあたりをさし,肥沃な大地と豊富な鉱物資源に恵まれた地域でした。そこでは農業と,鉱物資源による交易を中心とした経済活動が行われており,当時の地中海を股にかけギリシアやフェニキアとの間に盛んな交流が行われていたようです。そうした活動を通して,のちにローマ人にも伝えられることになるアルファベットがイタリアの地にも浸透しはじめたのでしょう。ではそのような環境の中で,エトルリア人はどういった社会を形成していったのでしょうか。
紀元前8世紀頃のエトルリアの社会は,民族的な帰属意識からくる連邦構造をもち,その一体性は12からなる都市という形に現れていました。一体性の目的は宗教にあり,その方面には非常に熱心な民族であったようです。都市の建設においても,発達した文明をもっていた彼らのつくる都市には,前6世紀の初め頃から,それまでのエトルリア諸都市にはなかった直行した区割りによる幾何学構造が見られはじめます。タルクイニア,アレッツォ,ペルージアなどの複数の都市が,そうした嗜好の中で建設されていきました。そしてその技術の先進性により,紀元前8世紀の中頃,のちの都市ローマが建設されたのもエトルリア人によるものといわれています。こうして以前の文化では無秩序のまま計画性もなく進められていた都市建設も,エトルリア人の手を介して「都市計画」の水準へと発展していくこととなりました。そのローマは建築において,特に神殿建築と葬礼建築の面では多くのことをエトルリアから学びます。前7世紀末からの100年ほどの間,ローマを治めていたのはエトルリア出身の王たちでしたが,彼らが建てた神殿建築には,高い基壇と正面性や軸線性といった特徴が認められ,そうした特徴はエトルリア神殿の模範によるものと考えられています。前509年に建設されたカピトール神殿は,それを示す最も適した一例といえるでしょう。またエトルリアの地下墳墓に見られる彼らの住宅を模したアトリウム形式は,ローマ人の住宅形式の基礎として引き継がれていくことになりました。そしてローマの都市を特徴づけているフォルムと呼ばれる広場の完成も,エトルリア人のもつ排水技術などの,都市基盤施設に対する技術が大いに影響を与えていたようです。

文化的な衰退と功績

エトルリア人は言語上の必要により,ギリシアから引き継いだ文字に変更を加えてローマへと伝えます。また都市の建設においても,彼らのもっていた高度な技術を教えることによってローマの都市が形づくられていきました。前753年のローマ創建当初から250年ほどの間,その文化の優越性によりローマを支配下に置いていたエトルリア人でしたが,前509年にエトルリア系の王が追放されローマが王制から共和制に移行したあたりから,次第にローマ人の立場的な優位が目立ちはじめ,前4世紀の初頭になると彼らの文化は徐々に衰退への道を歩みはじめることになりました。しかし現在のヨーロッパの基礎を形づくったその後の大ローマ帝国に,言語や文字,そして都市の形成といった文化的な原型を与えたのは彼らの功績といえるのではないでしょうか。


Date: 170601

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