daisuke fukushi

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ローマ大文字体
Roman Capitals

記念碑的な形象

紀元前1世紀から後2世紀の頃,ギリシアやエトルリアから文字の形を引き継いだローマ人は,そのスクエアで威厳にみちた形の文字記号を,堂々とした風格のある楷書体へと発展させました。そしてその文字は,碑文のような記念碑的な場面での使用を通して,ローマ大文字体と呼ばれる文字形象として完成をみることになります。 その代表ともいえる書体が、113年にトラヤヌス広場に建てられた記念柱にある,トラヤヌス帝の碑文です。そこに刻まれているローマ大文字体の文字形象は,私たちが現在よく目にするアルファベット書体の大半がここから発展してきたといわれているほど,欧文書体の礎となり大きな影響を与え続けている書体です。
カリグラファであるエドワード・ジョンストンの指摘にもあるように,文字の形はそれを書く筆記具などの道具から,強く影響を受けやすい造形物といえます。ローマ大文字体もその例外ではなく,「ローマ大文字はペンという道具を介して長い期間にわたって文字を描写していくうちに文字形象がペンからの影響を受けて変形し,また変調されてきている」 1 という特徴をもっています。石の上に刻まれることの多かったローマ大文字体も,材料である石からの影響だけではなく,下書きをするときに使われる平筆やペンによる筆跡,そして石に刻むときに使われるノミといった道具の影響も受けることによって,形成された形だといえるでしょう。
碑文での使用を通して完成されていったローマ大文字体ですがギリシア・エトルリアから引き継いだ当初より,形がさらに記念碑性をおびていった背景には,もとの形に残されていた威厳にみちた特徴のほか, 手書きの筆跡や道具の影響を受けていく過程の中で,当時の人〻の価値観やその時代の風潮などを自然と内在させていったのかもしれません。「碑文」というものが今よりも社会的に機能し,そこで使用する書体が必要とされていたことを考えてみても,そこに時代性を読みとることができそうです。

記念建造物によるローマ化

ローマ帝国は「都市の帝国」 2 といわれるほど、そこでは数多くの都市が生まれました。征服した領土を支配していくために,当時の皇帝たちは都市計画という手段を使って様〻な属州にある都市のローマ化を推し進めていきます。 そうした計画の中で,特に顕著に見られる取り組みの一つが多くの記念建造物の建立です。それらは「公共の広場であるフォルム/公式の宗教の神殿であるカピトリウム神殿/都市参事会の集会が開催されるクリア/司法活動の場たるバシリカ/見世物や競技の開催に使われる劇場または円形闘技場/さまざまな神のために建立された聖所/巨大な浴場施設である共同浴場」 3 などの他,水道や衛生施設,凱旋門,記念柱に彫像といった,非常に多岐にわる機能を持った建造物が建てられました。当時の皇帝たちはそうした活動を通して帝国の威厳や偉大さを誇示し,また民衆の注目を集めるなど,それらを支持を得るための政治的手段としていたようです。そして「建造物に壮麗な装飾が施されたことは,ローマ市の革新の一つであった」 4 という指摘は,当時の建造物が帝国の権威を演出するための道具として利用されていたことを想像させます。

都市計画の拡大

帝政時代,その初期のローマ帝国では戦争が非常に多発しました。セプティミウス・セウェルスが皇帝だった3世紀初頭の首都ローマでは,人口の集中・増加に伴って都市の狭さが課題となり,都市は拡大の必要性に迫られます。しかし戦争の多さが原因であったのか,そのために行われた建設作業は急を要したものとなり,わかりやすい単純なプランの採用や,既存の建造物からの建築資材の流用など,非常に迅速にその作業は進められていきました。「大量の建築をより早くより簡単に供給しなければ帝国は保たない」 5 とされる当時のローマ帝国において,この拡大の要求に応えるということは喫緊の課題だったのでしょう。そうして建設されたセプティミウス・セウェルスのフォルムは「最盛期の帝政建築のなかで最も美しい建築例の一つ」 6 とされるほどに壮大なものであったといわれています。

アーチの理由

拡大していく都市の課題に応えるべく,そこに現れた要素としてあげられるものが「アーチ」です。ローマ建築を最も特徴づけるこの「アーチ」という形がなぜ生まれたのか,ここでもう少し詳しく見ていこうと思います。 アーチが普及してきた背景には,都市の拡大に伴った「量」という問題がありました。80年に首都ローマに建てられたコロッセウムなど,「劇場」や「円形闘技場」といった大人数の観客を収容できる建造物においてアーチが多用されているという点をみても,その形が「量への課題」に対応するべく選ばれたものであったと考えられます。 そしてそのアーチがなぜギリシアではなくローマの地で普及することになったのか。古代のギリシアとローマにおける劇場のつくりを比較してみることでその理由がもう少し鮮明にみえてきます。
ギリシアにおける劇場は,アクロポリスとよばれる小高い丘の斜面に建てられていました。斜面の岩を削り取り,それを利用して階段席を設けるなど,地形がそのまま建物の構造体として応用されていたようです。一方ローマの劇場に目を向けると,それは平野部のような平坦な土地に建てられ,地形に左右されるということはありませんでした。しかしその分,そこには新たに建物を支えるための構造体が必要となります。そのときに採用されたのが,回廊式のヴォールトによって建物を支えるという方法でした。このつくり方は,劇場のように収容人数が多く人の出入りの激しい建造物にとっては,開口部のスパンを広くとることができ,と同時に支持体の強度まで高めることが可能なので,非常に理にかなったものとして採用されることになったのでしょう。それにともない建物の外観も,多くのアーチが繰り返されるという個性的なファサードを手に入れることになりました。

権威の表現

1・2世紀に始まる数世紀,ローマ帝国の繁栄はその最盛期を迎えることになります。当時の皇帝たちはその時代,民衆の支持を集めるために様〻な方法を使って権威・権力を表現し,目に見えてそれを誇示することに注力しました。威厳にみちた建造物を数多く建設し,人物を神格化するため「裸体」という表現方法を使って数〻の彫刻作品を生み出し,レリーフやコインといったものにまで,描かれる人物の服装やポーズを通してその表現を行っていきました。そして碑文に刻まれたローマ大文字体もまた、こうした権威を表現するためにとられた手段の一つだったのではないでしょうか。権威を示すことが重要視されていた時代の中で完成をみたローマ大文字体は,威厳にみち堂々とした風格の形であることや,「碑文」という記念碑的な場面での使用に耐えられるという条件に応じることによって,時代への同調を許されたのかもしれません。

1|ジョンストン 2005,p. 31
2|ル・ル 2012,p. 93
3|グリマル 2003,p. 9
4|ル・ル 2012,p. 48
5|藤森 2011,p. 89
6|ル・ル 2012,p. 48



Date: 171202

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