daisuke fukushi

180714
#6, Square Capitals & Rustic

手書きの痕跡

1世紀頃から次第に形が確立されていき,トラヤヌス帝の碑文において完成をみたローマ大文字体ですが,この書体が碑文での使用を主としていたのに対して,同じ時期,書物や公式文書などで使われていたものになると,スクエア・キャピタルとラスティック体とよばれる二つの書体をあげることができます。
これらの書体は,碑文に用いられていたローマ大文字体の形をもとに,それをペンで書くことによって,書物用として使われるようになった書体です。どちらもパピルスなどの支持体に葦ペンで書かれることが多く,細部にその特徴を認めることができますが,スクエア・キャピタルがローマ大文字体の形をほぼそのまま引き継いでいるのに対して,ラスティック体はストロークやセリフの傾斜・形に,手書きの柔らかさや使われた道具の痕跡を多く残しているのが特徴です。また字幅の極端な狭さや,太い部分に弱く,細い部分に強くかけられている矛盾した筆圧という点も特徴的です。そうした変化にともない,威厳にみちたローマ大文字体に比べると厳格さが減り,少し角の取れた滑らかな印象のものへと変化していき,また同時に装飾性も帯びるようになりました。主な用途としては,書物のタイトルや序文といった割と目を引く部分に,比較的大きなサイズで使用されていたようです。そういった扱いをみても,そこには装飾的な意味合いが含まれていたことがうかがえます。この書体のそうした書物を中心とする使われ方は,その後5世紀の末頃まで続いていくことになりました。

普及する書物

このように文字の支持体とされていた書物の形態にも,2世紀以降になると変化がおこります。この時代は,徐々に碑文という顕示性の強い表現手段が衰退し,書物においては4世紀頃までの主流だった「巻子本(ウォルメン)」とよばれる巻物の形をしたものが,ページという概念を持った「冊子本(コデックス)」という形態へと変化していきました。それは巻子本に比べると非常に取り扱いのしやすい形であったこともあり,その後の本の読まれ方や書かれる内容にまで,多岐にわたる変化と広がりを与えていきました。

分裂とモザイク

4世紀から7世紀頃までの間,ローマ帝国は様〻な変化と分裂を繰り返す混乱の多い時代を過ごします。4世紀の末頃,多くの分派という分裂への要因を抱えたキリスト教がローマの正式な国教となり,それと時を同じくして始まった蛮族の侵入,また4世紀から5世紀の変わり目には,正帝・副帝といった複数の皇帝による共同統治・四帝統治という政治体制を繰り返すことに起因して,ついに一千年にわたる歴史を築いたローマ帝国が東西に分かれ,コンスタンチノープル(現トルコのイスタンブール)を拠点とした東ローマ帝国と,ラヴェンナを拠点とした西ローマ帝国への分裂という結果を招きます。
こうした社会の分裂と混乱は,言語においてもみられます。もともとローマ帝国の公用語はギリシア語とラテン語の二言語主義が一般的でした。国教となる前のキリスト教を広めたのはギリシア語によるものでしたが,4世紀の中頃を過ぎるころから徐々にそれがラテン語に置き換えられていきました。しかし帝国の東西分裂といった社会的な変動の中で,そうした二言語主義の文化にも隔たりが生まれ,それまでの文化を次の時代に残していくためにも当時の知識人たちの間では,編集・翻訳という作業が重要な意味をもつようになったと考えられます。それによってこの時期は,写本制作という作業が盛んに行われた時期でもありました。
ローマ性について語るとき,比喩的に用いられる表現としてしばしば「モザイク」という言葉が登場します。ローマ帝国は「古いものと新しいものが共存しているような,不均質なローマ性」 1 を備え,「地理的・言語的に多様な舞台の基礎/諸属州や諸都市,諸民族からなるモザイク」 2 であったと考えられています。また「『単一の』ローマ性は存在せず/『複数の』ローマ性が存在していた」 3 ともいわれ,そこは諸要素が複合的に絡み合い共存している,モザイクのような社会であったと想像できます。
4世紀前後のローマを特徴づけているこれら「分裂」という問題の多発は,モザイクという表現に含まれている,ローマがもともともっていた多様性という側面を考えると,何かのきっかけで,常に表面化せざるを得ない出来事だったのかもしれません。

集合住宅とキリスト教建築

権力を象徴するような,大掛かりな記念建造物が次〻と建てられていた西暦初頭,それと平行して日々の生活面においてもまた,一つの建築的な変化がみられました。それは庶民のおもな住処となった「集合住宅(インスラ)」の普及です。人口の増加にともなって,都市は拡大と同時に,限りある土地の節約にも迫られていました。生活する民衆にとってより狭く窮屈になった都市空間の不足を補うため,居住空間を上方へ拡張することによってその答えを導きだしたローマの街は,それまでの住宅の大半だった戸建住宅(ドムス)の街から,集合住宅が多くを占める街並へと変貌をとげていきました。
その後,4世紀の後半にあったキリスト教の国教化という大きな変動を受けて,宗教活動にともなう建築物にもまた一つの変化が訪れます。それがキリスト教建築の誕生です。キリスト教の影響によって帝国内では,礼拝のために多くの洗礼堂や集会所が必要とされました。しかし当時,それまでに建設された公共建造物の修復・維持に費用がかさみ,財政的に厳しい状況にあったローマ帝国は,既存の建物を転用することによってこうした礼拝に対する要求に応えていこうとします。その結果,洗礼堂としての「集中式」と,集会所としての「バシリカ式」とよばれる二つの平面形式が誕生することになりました。「集中式」とはもともと洗礼のために使われていたドーム付きの小型施設を転用したもので,円形のプランをしているのに対し,「バシリカ式」はもともと市場や裁判のために使われていた,長方形プランのバシリカを転用してつくられたものです。このようにして生まれた二つのプランは,その後の教会建築を代表する平面形式となりました。

ローマの資質

ラスティック体が最初に登場しはじめたのは,西暦初頭の1・2世紀頃ですが,それが普及し数多く用いられるようになったのは,これまでみてきたような分裂や混乱のあった時代の最中でした。ラスティック体の特徴については,字幅の狭さや筆圧の矛盾などに対する「紀元後最初の数世紀に使用されたこの文字は明らかに精神の分裂を反映している」 4 といった見方もあり,ここでもまた,時代を特徴づけている「分裂」という表現が登場します。
しかし,矛盾にみちた形といわれるラスティック体にも「書物」という居場所を与え,またその書物の普及という,社会にとっての大きな前進を経験することにもなった,この時代の心理を考えると,「分裂」という表現もその響きほど否定的に捉えるられるものではないのかもしれません。それができたのは,モザイクによる多様性の中で育まれたローマの人〻の中に,様〻な出来事によって揺さぶりを受け,時代が変容していく中にありながらも,それに柔軟に対応していけるだけの合成力 5 がもともと備わっていたからこそなのかもしれません。

1, 2|ランソン 2013,p. 9
3|ランソン 2013,p. 151
4|フェルデシ=パップ 1988,p. 182
5|グリマル 2009,p. 16
171202
#5, Roman Capitals

記念碑的な形象

紀元前1世紀から後2世紀の頃,ギリシアやエトルリアから文字の形を引き継いだローマ人は,そのスクエアで威厳にみちた形の文字記号を,堂々とした風格のある楷書体へと発展させました。そしてその文字は,碑文のような記念碑的な場面での使用を通して,ローマ大文字体と呼ばれる文字形象として完成をみることになります。 その代表ともいえる書体が、113年にトラヤヌス広場に建てられた記念柱にある,トラヤヌス帝の碑文です。そこに刻まれているローマ大文字体の文字形象は,私たちが現在よく目にするアルファベット書体の大半がここから発展してきたといわれているほど,欧文書体の礎となり大きな影響を与え続けている書体です。
カリグラファであるエドワード・ジョンストンの指摘にもあるように,文字の形はそれを書く筆記具などの道具から,強く影響を受けやすい造形物といえます。ローマ大文字体もその例外ではなく,「ローマ大文字はペンという道具を介して長い期間にわたって文字を描写していくうちに文字形象がペンからの影響を受けて変形し,また変調されてきている」 1 という特徴をもっています。石の上に刻まれることの多かったローマ大文字体も,材料である石からの影響だけではなく,下書きをするときに使われる平筆やペンによる筆跡,そして石に刻むときに使われるノミといった道具の影響も受けることによって,形成された形だといえるでしょう。
碑文での使用を通して完成されていったローマ大文字体ですがギリシア・エトルリアから引き継いだ当初より,形がさらに記念碑性をおびていった背景には,もとの形に残されていた威厳にみちた特徴のほか, 手書きの筆跡や道具の影響を受けていく過程の中で,当時の人〻の価値観やその時代の風潮などを自然と内在させていったのかもしれません。「碑文」というものが今よりも社会的に機能し,そこで使用する書体が必要とされていたことを考えてみても,そこに時代性を読みとることができそうです。

記念建造物によるローマ化

ローマ帝国は「都市の帝国」 2 といわれるほど、そこでは数多くの都市が生まれました。征服した領土を支配していくために,当時の皇帝たちは都市計画という手段を使って様〻な属州にある都市のローマ化を推し進めていきます。 そうした計画の中で,特に顕著に見られる取り組みの一つが多くの記念建造物の建立です。それらは「公共の広場であるフォルム/公式の宗教の神殿であるカピトリウム神殿/都市参事会の集会が開催されるクリア/司法活動の場たるバシリカ/見世物や競技の開催に使われる劇場または円形闘技場/さまざまな神のために建立された聖所/巨大な浴場施設である共同浴場」 3 などの他,水道や衛生施設,凱旋門,記念柱に彫像といった,非常に多岐にわる機能を持った建造物が建てられました。当時の皇帝たちはそうした活動を通して帝国の威厳や偉大さを誇示し,また民衆の注目を集めるなど,それらを支持を得るための政治的手段としていたようです。そして「建造物に壮麗な装飾が施されたことは,ローマ市の革新の一つであった」 4 という指摘は,当時の建造物が帝国の権威を演出するための道具として利用されていたことを想像させます。

都市計画の拡大

帝政時代,その初期のローマ帝国では戦争が非常に多発しました。セプティミウス・セウェルスが皇帝だった3世紀初頭の首都ローマでは,人口の集中・増加に伴って都市の狭さが課題となり,都市は拡大の必要性に迫られます。しかし戦争の多さが原因であったのか,そのために行われた建設作業は急を要したものとなり,わかりやすい単純なプランの採用や,既存の建造物からの建築資材の流用など,非常に迅速にその作業は進められていきました。「大量の建築をより早くより簡単に供給しなければ帝国は保たない」 5 とされる当時のローマ帝国において,この拡大の要求に応えるということは喫緊の課題だったのでしょう。そうして建設されたセプティミウス・セウェルスのフォルムは「最盛期の帝政建築のなかで最も美しい建築例の一つ」 6 とされるほどに壮大なものであったといわれています。

アーチの理由

拡大していく都市の課題に応えるべく,そこに現れた要素としてあげられるものが「アーチ」です。ローマ建築を最も特徴づけるこの「アーチ」という形がなぜ生まれたのか,ここでもう少し詳しく見ていこうと思います。 アーチが普及してきた背景には,都市の拡大に伴った「量」という問題がありました。80年に首都ローマに建てられたコロッセウムなど,「劇場」や「円形闘技場」といった大人数の観客を収容できる建造物においてアーチが多用されているという点をみても,その形が「量への課題」に対応するべく選ばれたものであったと考えられます。 そしてそのアーチがなぜギリシアではなくローマの地で普及することになったのか。古代のギリシアとローマにおける劇場のつくりを比較してみることでその理由がもう少し鮮明にみえてきます。
ギリシアにおける劇場は,アクロポリスとよばれる小高い丘の斜面に建てられていました。斜面の岩を削り取り,それを利用して階段席を設けるなど,地形がそのまま建物の構造体として応用されていたようです。一方ローマの劇場に目を向けると,それは平野部のような平坦な土地に建てられ,地形に左右されるということはありませんでした。しかしその分,そこには新たに建物を支えるための構造体が必要となります。そのときに採用されたのが,回廊式のヴォールト 7 によって建物を支えるという方法でした。このつくり方は,劇場のように収容人数が多く人の出入りの激しい建造物にとっては,開口部のスパンを広くとることができ,と同時に支持体の強度まで高めることが可能なので,非常に理にかなったものとして採用されることになったのでしょう。それにともない建物の外観も,多くのアーチが繰り返されるという個性的なファサードを手に入れることになりました。

権威の表現

1・2世紀に始まる数世紀,ローマ帝国の繁栄はその最盛期を迎えることになります。当時の皇帝たちはその時代,民衆の支持を集めるために様〻な方法を使って権威・権力を表現し,目に見えてそれを誇示することに注力しました。威厳にみちた建造物を数多く建設し,人物を神格化するため「裸体」という表現方法を使って数〻の彫刻作品を生み出し,レリーフやコインといったものにまで,描かれる人物の服装やポーズを通してその表現を行っていきました。そして碑文に刻まれたローマ大文字体もまた、こうした権威を表現するためにとられた手段の一つだったのではないでしょうか。権威を示すことが重要視されていた時代の中で完成をみたローマ大文字体は,威厳にみち堂々とした風格の形であることや,「碑文」という記念碑的な場面での使用に耐えられるという条件に応じることによって,時代への同調を許されたのかもしれません。

1|ジョンストン 2005,p. 31
2|ル・ル 2012,p. 93
3|グリマル 2003,p. 9
4|ル・ル 2012,p. 48
5|藤森 2011,p. 89
6|ル・ル 2012,p. 48
7|アーチを横に平行移動して生まれる構造体のこと。そのアーチをその場で回転させて生まれる構造体は「ドーム」とよばれる。
170729
#4, Latin Alphabet

ラテン文字への採用

エトルリア字アルファベットを経由してローマに伝えられたラテン字アルファベット。その数は現在26個の文字記号からなりますが,エトルリア文字の26個すべてがそのまま採り入れられたわけではありませんでした。紀元前7世紀頃,ローマ人はその中から20個の記号を採用します。「A,B,C,D,E,F,H,I,K,L,M,N,O,P,Q,R,S,T,V,X」の20個がエトルリア文字から採用されたあと,前2世紀までの間に,エトルリア文字にはなかった「Y,Z」がギリシア文字から直接借用され,さらに言語上の理由からCに線を加えてつくられた「G」の記号がその中に追加されます。ここまでの段階で採用された記号,または変形を加えて追加された記号を見てみると,その形状はすべて大文字(キャピタル)だけからなっていることがわかります。そうした形状の理由は当時主流だった書字材料(=石)と深く関わっていたものと思われますが,これら23個の文字記号は,のちの帝政ローマ時代初期,前1世紀から後2世紀までの間にその最盛期を迎えるローマ大文字体(ローマン・キャピタル) 1 へと発展していくことになりました。
そして当時はまだ存在しなかった3つの文字記号「J,U,W」は,「J」は I から,「U」と「W」は V からそれぞれつくられ,これでようやく現在の26個からなるラテン字アルファベットが揃うことになります。しかしこの,あとから追加された3つの文字記号の登場は,中世の時代まで待たなければなりません。

都市の発展と課題

古代のローマはその政治体制によって,3つの段階に分けることができますが,ラテン文字がエトルリア文字から引き継がれた前7世紀頃は,建国間もない王政の時代にありました。そして前509年にローマからエトルリア人が追われ,共和政の時代に入るのと同時にイタリア半島を統一。前27年になると,オクタヴィアヌスがアウグストゥス帝となったのを皮切りに帝政の時代が始まります。 この帝政時代は476年まで続きますが,そのうち180年までは五賢帝 2 の時代と呼ばれ,ローマが最も栄えた時代でもありました。そして,それと時を重ねるようにして,ローマ大文字体の完成もまた同じくこの時代に最盛期を迎えます。中でも特に有名なのは,113年に戦勝記念碑として完成した「トラヤヌス帝の碑文」です。この記念碑は当時起こったダキア征討の勝利を記念して,トラヤヌス広場に建てられた記念柱に設置されたもので,そこにはこの皇帝の偉大さを顕示する文面がローマ大文字体によって刻まれています。さらにキリスト教が登場するのもこの時代です。313年のミラノ勅令を受けてローマではすべての宗教が公認されますが,その後コンスタンティヌス帝によってカトリックの優位が認められ,ようやくキリスト教がローマ帝国の正式な国教となりました。
ローマ帝国が版図とした領域は,現代からは想像もつかないほどの広大なものでした。地中海沿岸部全域を始め,西はイギリス,東はトルコまで,現在のヨーロッパの礎を築いたのはまさにローマ帝国といえるでしょう。そして版図を広げた必然として抱える人口も急激に増え,首都のローマだけでも人口150万人の一大都市へと発展していきます。建築においてはギリシアの伝統を引き継いだローマですが,ギリシアの「質」を求める姿勢だけではこの拡大していく大帝国の「量」には応じきれず,「いかに量を可能にするか」 3 がローマ帝国の課題となります。

アーチの普及

そこで,この問題を解決するかのように現れたのが建築材料の変化です。ギリシア建築の大理石だけでは大量の建設事業をまかなうことができず,そこに投入されたのが焼成煉瓦やコンクリートといった新材料でした。また当時の建築物の象徴だった列柱も,より作りやすい形が求められ「ハーフカラム」と呼ばれる付け柱が誕生します。そして最もローマ建築を特徴付ける要素としてあげられるのが「アーチ」の存在です。ギリシア建築の柱と梁による直線的な建築に対して,ローマが加えた新しさともいえるそのアーチは,わずかな量の小さな石片を積み上げることで,より大きなスパンの建築物を可能にした工法であり,当時求められていた大規模建築にも対応しうる唯一の構造体でした。それはギリシアとエトルリア,どちらからの影響なのかわかってはいませんが,前3世紀にはすでに取り入れられていたようです。建築史の上で,アーチが構造体として表立って使われるようになったのは,ローマ建築がはじまりだったといえるでしょう。
古代のローマにおいて,その時代が最も栄えた時期と呼応するように完成を見たローマ大文字体は,その後ローマ大文字草書体やラスティック体,さらにアンシャル体へと,記念碑的で直線的な形状から,手書きによる曲線的な形状へ,徐々に派生していくことになります。そうした変化は日常生活の中で,より早く大量に書くという必要に応えた結果でした。他方,建築の世界に目を向けてみると,都市の拡大という時代の流れの中で「量」に対する課題を克服するため,ギリシア建築の直線からローマ建築の曲線(アーチ)へと,ここでも同じような形状の変化が見られます。こうして見ていくと建築も文字も,古代のローマは似たような課題と出会い,それを似たように克服していくという,ともにその時代に同調していった様子を窺い知ることができます。そうした変化はあとの時代にも現れる,様〻な様式への派生といった変化の中にも見いだすことができそうです。

1|呼び方がいろいろある。記念碑文字や,書字材料の石からとって石碑文字,また四角な字形から方形文字とも。
2|ネルヴァ,トラヤヌス,ハドリアヌス,アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウスの5人の皇帝。
3|藤森 2011,p. 89
170601
#3, Etruscan Alphabet

媒介としてのエトルリア文字

ギリシア文字からラテン文字へとどのような経緯を辿りその形が移り変わっていったのか,そこに現れてくるのがエトルリア字アルファベットの存在です。正確な起源が不明なその文字は,紀元前1千年紀初頭から前8世紀までの間に,イタリアに持ち込まれたギリシア文字がローマ人に引き継がれる際,そこを仲介したエトルリア人によって手を加えられたものと考えられています。その最古の文字遺物も前8世紀の末頃に見つかっており,そこにはフェニキア字母22個とギリシア字母4個の,計26個からなるエトルリア字アルファベットが刻まれていました。エトルリア人はギリシアからおそらく紀元前8世紀の末頃にその文字を借用したと考えられていますが,ギリシアのアルファベットには,現在でも使われ続けている東方アルファベットと呼ばれるものの他に,西方アルファベットと呼ばれるものがあり,このときに借用されたものは後者の方でした。そして,その文字をただそのまま引き継いだのではなく,例えば「f」の音価をもつ記号「8」の追加や,ギリシア語では「g」音を表す記号「Γ(ガンマ)」を「C」の形で引き継ぎ,それに「k」の音価を与えるなど,いくつかの変更が加えられることになります。こうした背景から,現在使用されているギリシア文字の形と私たちがよく使用しているラテン文字の形が異なっているのは,その由来が西方アルファベットにあることが要因となっています。

エトルリアの先進性

エトルリアは,その領域が完全に重なるわけではありませんが,ほぼ現在のイタリア中部にあるトスカーナ州のあるあたりをさし,肥沃な大地と豊富な鉱物資源に恵まれた地域でした。そこでは農業と,鉱物資源による交易を中心とした経済活動が行われており,当時の地中海を股にかけギリシアやフェニキアとの間に盛んな交流が行われていたようです。そうした活動を通して,のちにローマ人にも伝えられることになるアルファベットがイタリアの地にも浸透しはじめたのでしょう。ではそのような環境の中で,エトルリア人はどういった社会を形成していったのでしょうか。
紀元前8世紀頃のエトルリアの社会は,民族的な帰属意識からくる連邦構造をもち,その一体性は12からなる都市という形に現れていました。一体性の目的は宗教にあり,その方面には非常に熱心な民族であったようです。都市の建設においても,発達した文明をもっていた彼らのつくる都市には,前6世紀の初め頃から,それまでのエトルリア諸都市にはなかった直行した区割りによる幾何学構造が見られはじめます。タルクイニア,アレッツォ,ペルージアなどの複数の都市が,そうした嗜好の中で建設されていきました。そしてその技術の先進性により,紀元前8世紀の中頃,のちの都市ローマが建設されたのもエトルリア人によるものといわれています。こうして以前の文化では無秩序のまま計画性もなく進められていた都市建設も,エトルリア人の手を介して「都市計画」の水準へと発展していくこととなりました。そのローマは建築において,特に神殿建築と葬礼建築の面では多くのことをエトルリアから学びます。前7世紀末からの100年ほどの間,ローマを治めていたのはエトルリア出身の王たちでしたが,彼らが建てた神殿建築には,高い基壇と正面性や軸線性といった特徴が認められ,そうした特徴はエトルリア神殿の模範によるものと考えられています。前509年に建設されたカピトール神殿は,それを示す最も適した一例といえるでしょう。またエトルリアの地下墳墓に見られる彼らの住宅を模したアトリウム形式は,ローマ人の住宅形式の基礎として引き継がれていくことになりました。そしてローマの都市を特徴づけているフォルムと呼ばれる広場の完成も,エトルリア人のもつ排水技術などの,都市基盤施設に対する技術が大いに影響を与えていたようです。

文化的な衰退と功績

エトルリア人は言語上の必要により,ギリシアから引き継いだ文字に変更を加えてローマへと伝えます。また都市の建設においても,彼らのもっていた高度な技術を教えることによってローマの都市が形づくられていきました。前753年のローマ創建当初から250年ほどの間,その文化の優越性によりローマを支配下に置いていたエトルリア人でしたが,前509年にエトルリア系の王が追放されローマが王制から共和制に移行したあたりから,次第にローマ人の立場的な優位が目立ちはじめ,前4世紀の初頭になると彼らの文化は徐々に衰退への道を歩みはじめることになりました。しかし現在のヨーロッパの基礎を形づくったその後の大ローマ帝国に,言語や文字,そして都市の形成といった文化的な原型を与えたのは彼らの功績といえるのではないでしょうか。
170205
#2, Greek Alphabet

完全アルファベットへの進化

紀元前12世紀から前8世紀の間,ギリシア本土の歴史は闇に覆われた「暗黒時代」と呼ばれています。そしてこの時期に,人類史上初の完全アルファベットと称される,初期ギリシア字アルファベットが形成されました。またこの暗黒時代には,北方からギリシア本土にドーリア人が侵入し,その混乱期を経て各地にポリスと呼ばれる都市国家が多く形成される時期でもありました。
ギリシア文字は,古代ギリシア人によってその大部分をフェニキア文字から引き継ぎ,さらに3つの記号(Φ,X,Ψ)が加えられます。そして,すでにフェニキア文字に含まれていた,半子音字からの変種として,a音,e音,i音,o音をこの完全アルファベットにおける最初の母音記号として用い,また「Ω」をその最後におかれる記号として追加しました。ギリシア文字体系はこのような段階を経て,言語の最小単位である単音文字を取り入れるという偉業により,完全なアルファベットへといたります。
字母の置き換えや追加はこうした段階を踏んできましたが,その形体についてはどのような経緯が見られるのでしょうか。ギリシア文字は,その元となったフェニキア文字に比べるとより規則正しい幾何学的な特徴が目立ちます。「フェニキア字母の線の長短の極端な違いが平均化された/次第に正方形の形体を保持するようになった/明快性と単純性への努力が複雑なフェニキア字母を簡素にした」 1 という点などはまさに,ギリシア人の美的感覚や平均性,調和感が如実に表されており,このような簡素化や変形は,前6世紀半ばからのほぼ100年のうちにすでに完成を見ています。
その後もギリシア文字は,復古的傾向や方形化へ進む動き,また曲線を多用するなどの発展が見られ,さらにラテン字アルファベットの影響を受けながらも様〻な進化を続けます。しかし15世紀になると,その完全アルファベットとしての立場をラテン文字に譲り,徐々に衰退への道を辿ることになりました。

民主政の始まり

ギリシアという国が当時どのような都市を形成していたのか,その様子もここで少し見ていこうと思います。古代ギリシアの社会では,紀元前16世紀初頭に始まる王政から,貴族政を経て前5世紀には民主政の完成を見たように,政治体制が次第に移り変わっていきました。前述したポリスの成立は,その中でも前8世紀中頃に始まる貴族政の時期にあたり,王の下に権力が集中し小王国が分立していた時代を通り過ぎて,貴族政から民主政へと,徐々に平民層の自立や地位の向上が目立ってくる時代でもありました。そのような中で形成されたポリスは,小さな共同体が連合しあう形で,その規模は「国民相互が『知り合っている』程度の人口/一目で見渡せる広さ」 2 を有する非常に小さなものであったようです。暗黒時代を抜け出したギリシアの風景には,そのように細分化された社会が現れることになります。

美意識と社会

そしてこの時代,古代ギリシアでは神殿を中心とした建築物が数多く建てられ,その構造は木造建築によって始まります。のちに,多くの遺跡などでも見られるような石造へと進化していきますが,当初は木材を使い,それが石に置き換わったあともその形象やディテールは木造のそれを引き継いでいきました。そしてオーダーと呼ばれる柱の形状とモデュールという比例の考え方を基に,柱と梁による簡素な建築美を追求していきます。この比例に関しては,古代ギリシア人のもつ「美しい容姿の人間に美の基準を求める」という美意識により,人体の寸法を基にした比例が用いられていたようです。さらにシンメトリーへの強い関心も,ギリシア建築に見られる特徴の一つであり,前述した,ギリシア文字に新しく追加された記号のどれもが左右対称となっている点や,また文字にも建築にも,同じく簡素化を求めている点などを照らし合わせてみると,そこからギリシア人の美学的な嗜好を窺うことができると思います。
そのようなことを踏まえつつ,古代ギリシアの社会を捉えようとしてみると,建築史家である藤森照信氏の「小さくても美しい質」による「点景としての建築」 3 という解釈になにかヒントが隠されているように思います。この視点で古代ギリシアの様子を振り返ると,その時代,文字には最小単位としての単音文字が,また都市や建築には,ポリスの形成や,人体寸法とモデュールを基準とした小さなスケール感が,そして新しい社会秩序として,平民の自立性からくるギリシアの個人主義が,どこか共通した視点をもって現れてきたように思います。単音文字,ポリス,モデュール,個人主義,それらはすべて,小さな一つの単位が集まり,繰り返されたり,組み合わされることで完成する世界観です。そうした「小ささ」を核とした,ものや社会の細分化ともとれる現象は,ギリシアの地でこの時代が求めていた必然だったのかもしれません。

1|フェルデシ=パップ 1988,p. 152
2|岡崎 2003,p. 37
3|藤森 2011,pp. 84–86
161201
#1, Phoenician Alphabet

アルファベットの起源

現在私たちが使用することの多いアルファベットという文字体系の起源を遡ると,フェニキア文字に行きつきます。 フェニキアとは地中海東岸にある現在のレバノンにあたる地域をさし,その地で紀元前2000年紀から前1000年紀にかけて,22の子音記号をもつフェニキア文字が成立しました。この文字の生まれた背景についてはエジプト仮説,クレタ仮説,シナイ仮説など,複数の説があげられていますが,どれか一つの文字体系からの派生という明確な起源を持つものというよりも,この文字体系のもついくつかの特徴から推察できる折衷的な性格が,様〻な文字体系から多面的に影響を受けたという考え方を,有力なものにしています。
その特徴を見ていくと,例えば「母音字の欠如/右から左への運筆/アクロフォニー原理を用いる」 1 というものがあり,これらにはエジプト文字からの影響がみられます。また「語と語を区切る単語分離(分かち書き)記号として一つの線か点を使っている/著しく線形のまた慣用化されて単純化した字形」 2 という特徴からは,クレタ文字からの影響が伺われます。こうした点から20世紀初頭以来,「フェニキア文字はある個人の意識的な発明であった」 3 という見解に賛意を示している学者も多くいるようです。

フェニキア

ここでフェニキアと呼ばれていた地域について,少しその時代の様子を見ていくことにします。エジプトとメソポタミアという人類の二大文明の地に挟まれているフェニキアの住民は,地中海を中心とした広範囲にわたる交易活動によってその経済を支えられていました。そして物質的にも精神的にも,古代のあらゆる産物がこの地を経由し様〻な場所へと運ばれていったのです。もちろんアルファベットもその中の一つであり,むしろ最も重要なものであったいえるでしょう。
フェニキアには現在世界遺産に登録されている都市や遺跡が,ティルス,ビブロス,アンジャル,バールベックと複数あり,中でもビブロス(現在のジュベイル)では紀元前1000年頃のものと思われるフェニキア文字の碑文が,当時のビブロス王アヒラムの石棺の上に見つかっており,現存する碑文としては最古のものとなっています。このビブロスという地名は,エジプト産のパピルスをこの地経由で輸入していたギリシア人が呼んだ名で,ギリシアではパピルスを意味するそうです。ギリシア人がこの地を書物を作るためのパピルスの出所として認識していたことから,その名称が書物である「バイブル(聖書)」の語源にもなりました。文字の進化には,使用される道具の存在も大きく左右します。残念ながらパピルスは耐久性に乏しくフェニキア人についての記録はあまり残されていませんが,それでもこの地でフェニキア文字が成立できたのも,多くの交易とともにここを経由していくパピルスの存在が大きく関わっていたのかもしれません。

宗教の関与

西洋における文字の進化,また建築様式においても,宗教からの影響を無視するわけにはいきません。例えば西洋でのラテン文字の進化は,各地の修道院などで行われていた,聖書を流布させるための写本制作とともに発展してきましたし,建築では人々の太陽信仰により,縄文時代には立柱を建て,新石器時代にはスタンディング・ストーンを思いつき,そして太陽を目指しより高さを求めたエジプトのピラミッドへと繋がっていきます。さらに古代を過ぎると西洋の建築史は,教会堂や修道院といった宗教施設とともに語られることがほとんどです。このように様〻な側面から影響を与えうる宗教の存在が,フェニキアという文化交流の盛んだった場所ではどのような位置付けとして扱われていたのでしょうか。
フェニキア人の宗教において重要になってくるものが,農業社会とも密接に結びついている生産力信仰にあります。その成長や再生への崇拝が,太陽に向けられていたと想像できる手がかりとして,フェニキア人の残した神殿建築に見られる聖柱や聖棒の存在が浮かび上がります。これらの遺物は,おそらく偶像崇拝を逃れるために用いられたものと考えられており,具体物を避ける傾向をその信仰の中に垣間みることが可能です。そしてその傾向が,フェニキア文字の「著しく線形のまた慣用化されて単純化した字形」 4 に及んだと話を結びつけることは,少し考えを飛躍させすぎているでしょうか。
このような捉え方に,多少なりとも勇気を与えてくれる事例をイスラムの世界に見ることができます。そこでは人間・動物・植物などを装飾に用いることが禁じられています。絨毯織りなどの模様を見るとその図柄の表すものが何なのか,よく分からなくなっているほど象徴性・具体性を欠いており,そのような装飾の様式にまで変化を及ぼしてしまうところに宗教の持つ影響力を伺うことができるでしょう。そしてこれらのことから偶像崇拝を避けることと表音文字との間に関係が認められ,また,それを肯定することと表意文字との間にも関わりが見られるのであれば,象形文字である漢字が生き残り使われ続けている日本や中国が,何らかの神像なり仏像を崇拝する信仰を,宗教の中心としていることにも考え方が繋がるのではないでしょうか。

1|フェルデシ=パップ 1988,p. 107
2|フェルデシ=パップ 1988,pp. 102–106
3|フェルデシ=パップ 1988,p. 107
4|フェルデシ=パップ 1988,p. 107
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#0, Prologue

タイポグラフィの世界をより深く掘り下げてみようと,ここでは「建築様式と文字」というテーマをもとに,同じ時代背景に生まれた二つの造形について考察したいと思います。このテーマはタイプフェイス・デザイナーであるアドリアン・フルティガーの著書『図説 サインとシンボル』(研究社)を読んでいる中から想を得たもので,歴史的な変遷の中で文字の形が変化してきたことと,その各時代の建築様式に類似性があるという例を知ったことがきっかけでした。
文字について研究を続けていく中,その形象が必ずしもそれを設計した人の自己表現や恣意性から生まれるわけではなく,時代の流行や様式,また技術の進歩によっても形を変えてきたという側面があること,つまりそれが,時代性の反映された造形物であるということを学びました。このような捉え方は,近代建築の巨匠の一人とされるミース・ファン・デル・ローエの言葉にあった「建築は時代の本質を表現する」 1 というものや「時代の意志」 2 という表現からも連想することができます。
文字という造形物がどのような時代に,またどのような景色の中で育まれてきたのか。それを知ることがタイポグラフィを学ぶ上で大切なことだとすると,文字の形が生まれたその時代の建築様式と照らし合わせて考えてみることで,より深い理解が得られるのではないでしょうか。

1|ブレーク 2003,p. 80
2|スペース 1988,p. 54

references

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